
般若心経
ピーヒョロヒョロと鳴き声を目で追い見下ろす港の光景がてとても印象に残っています。
幼い頃、親に連れられお寺に行くのが好きでした。ジャリ、ジャリと小石を踏み込む音、お香、鈴の音、お経、なんだか落ち着くんですよね。
お経ってどんな意味があるんだろう?
そう思ってましたが、今まで調べるまでには至らずでした。
ある日、両親から「お墓まで行くの遠いし、永代供養しようと思ってるんだけど、それでいい?」と聞かれまして、考えたこともないことを聞かれたので、「永代供養ってどれくらいかかるの?」と聞き返すと、「うん百万円。」と言うのです。
それだけ払わなければならないものではなく、気持ちを乗せてそのくらい払うというのです。そこまでの額まではいかないものの、年忌毎に結構な額を納めていたとか。
お寺で出してもらう茶菓子を無邪気にパクパク食べてたけど、高い茶菓子だったようで・・・

般若
まあ、それはいいとして、墓参りには頻繁には行けないけど、墓参り自体は好きですし、そのままにしておいて欲しいので、永代供養はしなくていいと意思表示をしました。
今後のことを考えると、お経(般若心経)くらいは自分で唱えることができた方がいいと思いまして、iPhoneアプリ等を買いまして聞いているところです。
でも仏説摩訶般若波羅蜜多心経と聞くと、どうしても『般若』が耳に残り、般若心経とは関係ないのですが、あのおどろおどろしい能の面をイメージしてしまいます(笑)。
音として般若心経を覚えても、意味を分かっていないのでダメですよね。ヴァンパイアに十字架を向けても信仰してなければ効かないと言ったところです。
般若心経

般若心経
一生幸福になる超訳般若心経
手っ取り早く般若心経の意味を知りたく購入した本が、Dr.苫米地の 一生幸福になる超訳般若心経 。
僕も般若心経が「空」と説いているということは何となく知っていました。色即是空 空即是色などといっていますから。
では「空」とは何? 「空っぽ」→「何もない」→「無」と解釈していましたが、
「無」の反対は「有」であり、「有」とは絶対的にあるもの。それを否定するのに「無」という言葉を使うと、かえって「有」を認めることになる。なぜなら、「有」あっての「無」だから。
という内容のことが書かれています。そして、「空」は「有」も「無」も両方を包摂する概念で、「有」でも「無」でも同じことというのが「空」であると説かれています。
そしてDr.苫米地は、般若心経に使われている「空」と「無」の使われ方にメスを入れています。
「空」と「無」は次元の異なる概念
「色即是空 空即是色」は「物質は無いに等しく、無いと思ってもそこに物質はある」ということから、「色即是無 無即是色」と添削し、「空包摂色 空包摂無」を挿入しています。
なんだか、「シュレーディンガーの猫」的な思考で頭がこんがらがってきますが、読み応えありますし、腑に落ちます。つまり、「空」を本当に理解できれば、この世のあらゆる悩みから解き放たれる。
なぜなら、悩みも、悩みの種もすべて「空」だから、ですよね。
般若心 超訳
お釈迦様が、修行僧たちと止観瞑想をしていたときのことです。
止観に秀でた弟子の一人である若き日のアヴァーローキテーシュヴァラ(観自在菩薩)という修行僧が、深遠な縁起の瞑想に成功し、すべてのものは「空」であると見極め、一切の苦しみ、災厄から解放されました。
それを聞いて、シャーリプトラ(舎利子)は、お釈迦様に「このような完成された智慧(般若波羅蜜多)をどのように伝えればよいのでしょうか」と質問しました。
お釈迦様はこう答えました。「シャーリプトラ(舎利子)よ。完成された智慧を学びたいならば、次のように見極めなさい。
『物質』と『無』は異なるものではない。『物質』と『無』は本質的に別のものではない。
『空』が『物質』を包摂し、また『空』は『無』を包摂する。このように、『空』は『物質』と『無』の両方をを包摂するものである。
同様に、心で感受したり、想起したり、われわれの意識や認識もすべて『空』である。
シャーリプトラ(舎利子)よ。したがって、以下のように教えなければならない。
すべての現象は『空』である。
生じることも滅することもおなじことだ。汚いこともきれいなことも同じことだ。増えることも減ることも同じことだ。
したがって、『空』は『無』も『物質(『有』)』もその中に包摂している。
他の五蘊も(受も想も行も識も)同様にすべて『空』である。
眼も耳も鼻も舌も身も意も(視覚も聴覚も嗅覚も味覚も触覚も心も)すべて同じである。
色も声も香も味も触も法も(見えるものも、聞こえるものも、臭いも、味も、感触も、感じるものも)すべて同じである。
眼界から意識界に至るまですべて(見ている世界から意識している世界まですべての世界は)『空』である。
迷いも『空』であり、また迷いが尽きるのも『空』である。老死も『空』だし、老死がなくなるのも『空』である。
苦しも、苦しみの原因を考えることも、苦しみの原因をなくすことも、苦しみの原因をなくす方法も『空』である。
智も『空』であり、また何かを得ることも得ないことも『空』である。何かに囚われることも『空』であり、囚われない境地さえもまた『空』である。
修行僧はこの智慧の完成の境地を拠りどころとしないさい。
菩薩(修行僧)の心には妨げも『空』であり、こだわりも、恐れも『空』である。また、迷いから遠く離れているので、涅槃(ニルヴァーナ=覚りの世界)に至ることができるのだ。
現在、過去、未来に存在するすべての仏陀(覚った人)も、この深遠な智慧の完成を拠りどころにして、この上ない完全な覚りの境地に至ったのである」
以上が、お釈迦様の答えである。
この摩訶止観の境地にへといざなうために、以下の智慧の完成のマントラが後に伝えられた。
これは偉大なる智のマントラであり、無上のマントラであり、無比のマントラであり、すべての苦しみを取り除く効果がある。これは後の人たちの虚妄ではなく、真実のマントラである。
このお経で述べてきたように、マントラに力があるのではなく、このマントラを唱える菩薩の止観による智慧の完成に力があるのである。
それは以下のように伝わっている。
ガテー・ガテー(羯諦 羯諦)
パーラガテー(波羅羯諦)
パーラサムガテー(波羅僧羯諦)
ボーディ・スヴァーハー(菩提薩婆訶)(英訳)
”I(we) shall, (let me/us) be,
I shall(let me) be, let not let me be,
let me must not be, so therefore,
I shall (let me) be.”(和訳)
「とありたい、とありたい、とありたくないとありたい、からこそとありたくない、それでとあるのだ」(要約)
「ありたくないとありたいからこそあるのだ」
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